失われたフェルメール絵画

失われたフェルメールの絵画の映画予告

現存するフェルメールの作品35点。
しかし『合奏』と題された1点だけ、誰も見ることができない・・・

1990年春、ボストンにあるイザベラ・スチュワート・ガードナー美術館に警察官に扮した二人が侵入し、アメリカの美術品盗難史上最高額5億ドル相当(当時)の美術品13点を盗んだ。レンブラントの『ガリラヤの海の嵐』、そしてフェルメール―遺されているたった35作のうちのひとつ、『合奏』である。ガードナー美術館は、500万ドルの懸賞金を出した。しかし時が経っても、どれひとつとして戻ったものはない。かつて名作のあった場所には、空の額だけがかけられている。

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わが教え子、ヒトラー

人間ってかくもおろかに単純に踊らされ 愛国の下に常識的理性が失われていく摩訶不思議さ。現実の社会でも理性的な思考の下に日々暮らしている人々ですらマスコミに踊らされているのをみるとこの映画のゲッペルスの人心把握の術は人を思うように動かす事が出来ることの証明である。

あるタレントがテレビで「人心の意思統一を全体で図らねば成らない」と公然と公共の電波で流れてしまったにも拘らず 今とある自治体の知事に納まっているのを見ると怖さを覚える。

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ビューティフル.ルーザーズ

アートを創る者、観る者、全ての価値観を変えた
“落ちこぼれたち(ルーザーズ)”の 軌跡がここに。

日 時 2008/8/2.SAT-8/16.SAT
11:00am-8:00pm
場 所

LAFORET MUSEUM HARAJUKU

入場料無料
ドキュメンタリー映画『BEAUTIFUL LOSERS』に登場するアーティストたちの作品が一堂に会します。アメリカ、イタリアを飛び回り、2010年にはスペイン・マドリードでも開催される巡回ショーがいよいよ日本に初上陸。キュレーションは、同映画の監督も努めたアーロン・ローズ。アーティストたちのモノづくりへの情熱が会場を包みます

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ラフマニノフ

なんとなくラフマニノフの曲を聴きたくなり

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ビクトル・エリセ

ビクトル・エリセ、溝口健二との出会い

「没後50年溝口健二国際シンポジウム」(2006年8月24日)の発言

人生を凌駕する、人生を越える映画が存在する

1963年、溝口がこの世を去って7年後、スペイン・マドリッドのフィルモテカで、溝口健二監督作品の特集上映が行われました。ビクトル・エリセはこのとき、初めて溝口の作品をみました。

2007-07-31 08:47:08

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エンリケ・グラン

エンリケ・グラン

昨日の展覧会からなんとも薄ぺっらなイメージしか出てこない。時々無性に見たくなってくる絵が現れるが、今回はエンリケ・グランだ。ビクトル・エリセ「マルメロの陽光」に出て来る抽象画家。そういえばビクトル・エリセの映画も見たいものだ。

マルメロの陽光(Elsol del Membrillo)1992監督 ビクトル・エリセ 出演 アントニオ・ロペス、マリア・モレノ、エンリケ・グラン  アントニオ・ロペス・ガルシアがマルメロの木を描く様子を映画にしてしまった。ドキュメンタリーか、というとそうとばかりは言えない、作られた形跡があるし、全てが作りものにはなっていないし、ビクトル・エリセの見たある画家の制作過程ということかな。 絵は描けても上手く描けない、普通の人はほとんどそうだろう。上手く描くことの出来る人が学校で習ったり、自分で研鑽して独自の絵画を作り上げて行く。そんなみちすじは分かっていても、絵を描いて行くやりかたとか、方法はさまざまだろう。この映画をみて、彼が一風変わった、きっと彼の性格から来るものだろうきちっとした方法で描いて行くのをみて、描く物へのアプローチの仕方は千差万別だな、と思った。私がやるとしたら、まず鉛筆でスケッチして、水彩で軽く色を付けて、それを参考にしつつ、油絵を描く、と思う。ロペスはカンバスに水平、垂直の線を引き、描く対照であるマルメロの木にも目安となる糸を張り、スケッチかと思いきや、直接色を塗り始めた。この思いがけない直接法の割りには筆の進みが遅い。描かれる対象が静物ではないので、次第に育ち、枯れてゆくので、急いで描かないと見た目が違ってきてしまう。その対応が面白い。マルメロの実にも、葉にも、枝にもしるしを付けてゆく。重みで下がってゆくからである。それだけ厳密に描こうという姿勢が作品に反映されることなく、どんどん時が経ってしまう。絵画は永遠の一瞬を描き止めるものだが、対象をある時間の長さをも含めて表現できたらすごい。映画ではそれは簡単なことだ。いくつかある芸術の間を超えて、成立させることの難しさ、を見た。エリセが試みたのも、今までの映画とは異なる映画への挑戦ではなかったか。それは始めから意図したものではなく、ロペスをどう写し取れば最良のものが出来るか、という自問の中から得た回答であった。ロペスに直接質問することはせず、流れのなかで、彼を訪ねてきた人との会話で説明する。だから、始めのうちは彼がどんな人で、どのようなやり方で絵を作り上げてゆくのか分からず、もどかしい思いがした。きっと監督自身にも疑問はあったと思う。それをあえて聞かず、その答えが出た話し合いを映画に挿入し、観客もきっと持つであろう疑問に答えたのだろう。 映画は親切な芸術だ。作り手が全ての要点を並べ、回答、まとめまで提出してくれるのだから。作者の個性が最も現われるものだ。それだけにひとりよがりの片寄ったのが出来上がりがちだが、対象が一般庶民だから、そんなのは受け入れられない。つまり、一番過激な芸術にもかかわらず、一番おだやかに、分かり易く作らざるを得ない。そんな映画作りのフラストレーションをここにぶつけたのか。画家ロペスが彼なりの自由なやり方で自分の芸術を創造してゆくことに嫉妬でもしたかのようだ。それでも精一杯自分を主張した映画になっているので、エリセは妥協していない。こんな個性的なそれでいて分かり易い映画って珍しい。それは彼が自分を映画作家として、はっきりと認識しつつ、思い通りな映画を作ってしまったことに起因する。たまたまこんな映画になってしまったのか、始めから意図した通りの映画がこれなのか。映画の可能性を広げた映画として、記憶されるであろう。

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ルキノ.ビスコンティ

ルキノ.ビスコンティ
 今週の火曜日にアリダ.ヴァリの「夏の嵐」を皮切りに来週までの2週にかけてNHK衛星の第2でビスコンティの映画が放映される。
 昨晩は「ルートヴィヒ」で4時間堪能してしまった。一つのシーンが絵画のように見えてくる映像に改めて今の映画にない美意識を感じられた。

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