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クレヨン画《庭前柏樹子》

庭前柏樹子(ていぜんのはくじゅし)
「無門関」第三七則 「趙州録」
「柏樹」とは、所謂(いわゆる)、日本の「かしわ」の樹ではなく、柏槙(びゃくしん)といわれるもので、無数に分かれた小枝の周囲に糸杉に似た葉が付き、繁茂力が強く、冬も夏も色を変える事なく、常に緑を誇り、幹は檜に似て赤く、縦じまが美しい樹です。その木が趙州和尚の住した観音院に繁茂していた。其処での問答。

ひとりの僧、趙州に問う「如何なるかな是れ祖師西来意」

州曰く、「庭前の柏樹子」

僧曰く、「境をもって人に示すことなかれ」

州曰く、「吾、境をもって人に示さず」

僧曰く、「如何なるかな是れ祖師西来意」

州曰く、「庭前の柏樹子」

というのが原文です。

「人がどのように生きるか、そしてどのように死んでゆくのか、その答えは、一人一人が考え、一人一人が答えを出す」ことであり、其れに対する真理の答えはない。いくら質問しても答えがないのは、「答えは、全て一人一人の生き方の中にある」。
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クレヨン、アクリル画


クレヨンとアクリルの混合
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クレヨン画


一つの矩形を上部に配置して微妙な色の変化での物語。

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水彩画


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クレヨン画

木目から

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クレヨン画《蒼》

蒼、青、藍、アオ
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クレヨン画

コロコロと転がる

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水彩画

墨のにじみ、たまりのように藍色で

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クレヨン画《流れ》

流れのままに委ねる
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クレヨン画

クレヨンの運びを一方向にして左右対称にしてみた。
画面が大きいと面白いかも

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クレヨン画

クレヨンで今までと違う色の複雑さが出て此処の所いろいろと描き続けている。
色の混ざり具合と線の交叉によって色面の表情が奥深く、微妙な色のブレが招じて面白さを出してくる。
もっと単純な流れの線にして画面を整理をした方がいいのかも

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クレヨン画《和敬静寂》


和敬静寂(わけいせいじゃく)―千利休のことばで、和にはじまり敬すると誰の心も清々しくなり そしてそこには、心のあたたかな静けさの寂が生まれます。


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クレヨン画《林間焚紅葉》

白楽天の「林間に紅葉を焼き、石上に詩を題して緑苔を掃う」は有名だが、全文を思い出さず探し出してみました。

寄題送王十八帰山仙遊寺   白居易

曽於太白峰前住
数到仙遊寺裏来
黒水澄時潭底出
白雲破処洞門開
林間煖酒焼紅葉
石上題詩掃緑苔
惆悵旧遊復無到
菊花時節羨君廻

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水彩画《眼横鼻直》

眼横鼻直(がんのうびちょく)―眼横鼻直空手還郷(がんのうびちょくくうしゅかんごう)とは道元禅師が28歳に中国から帰国した時の言葉で「目は横に、鼻は縦についていることがわかって、空手で帰ってきた」と。
あるがままに素直に見る、ありのままにあるものを見る。存在の自己認識に陥る前に存在を感知。
流れるまま あるがままに

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水彩画

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水彩画《放下著》

放下著(ほうげじゃく)―「放下ほうげ」とは、投げ捨てる、放り出す、捨て切るの意。「著じゃく」は命令の助辞で、放下の意を強めるために用います。
有と無、善と悪、自と他、生と死といったもろもろの対立する観念のすべての執着を捨て去って、何事にもとらわれない 心境にならなければならない。何かと自己顕示欲の旺盛な昨今、人はいつもいろいろなことや思いを背負って生きています。 しかし、それらのことにいつまでもとらわれていると、真実の自己に目覚めることはできません。おろかな物事へのこだわりを戒めて 捨てきる心こそ、一切が生きかえる。
執着を捨て、本来の自分に戻ると、物事がありのままに見えてくる、これが「放下著」の持つ意味なのです。

全くの無一物に徹することは至難の業。
いろいろな雑念は取り払い、無心の境地で。


とはいえ、一般社会の世間の常識を取り払って生活をするのも至難の業。
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水彩画《上善若水》

上善若水(じょうぜんはみずのごとし)

水は高きから低きに巧みに、障害物を避け又飲み込みながら水は自在に流れを変え、時には大きな力を発揮して、大きな岩石をも削り取って低き所に無心にさらさらと流れて行きます。

老子の教えの言葉で上善すなわち道を究めた人は水のようなものと。

自由自在の臨機応変な柔軟性を発揮してその場、その時に馴染みわが身を任せながらもわが身の意思を貫徹。

水の如く生きるべく、「如水(じょすい)」と号した黒田如水は、「水五則」を掲げて、自分の座右の銘とし、ついに黒田五十万石の大名になります。その「水五則」です。

一、自ら活動して他を動かしむるは水なり――他を指導する為には、自ら実践すべきである。
二、つねに己れの進路を求めてやまざるは水なり――自らの進路をいつも求め続ける積極性を持つべきである。
三、障害にあって激しくその勢力を百倍し得るは水なり――少々障害に当たろうとも力を落としたり、落胆すべきではない。
四、自ら潔うして、他の汚濁あわせ容るる量あるは水なり――どんなものでも受け入れる大きな度量を持つべきである。
五、洋々として大海をみたし、発しては雲となり、雨雪に変じ、霧と化し、凝っては玲瓏(れいろう)たる鏡となり、しかもその性を失わざるは水なり――何時でも、何処でも自分の信念だけは変えるべきでない。

一滴の水から最後には大きく広い大海へと。

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水彩画《万古清風》

古きにも新しきにも全てに清風が吹く

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水彩画《本来無一物》

 本来無一物 「ほんらいむいちぶつ」
「本来無一物 無一物中無尽蔵」―(人間は生まれながらに自分のものというものなど何もない、何も無い中に何もかも有る。何事にも執着すべきものはなく、一切のものから自由に)

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